先日、以下のような馬鹿げた記事を読んだ。
なんでこんな不快極まりない記事がこれ程ブックマークを集めたのか、さっぱりわからない。ちなみにブログ主は文中で
みだりにのろける人間は、今すぐ永遠に止まらない下痢に襲われるべきなのである。
などと言っておきながら、自らのろけ始めたのである。馬鹿馬鹿しいにも程がある。噂では、ブログ主は下痢にはならなかったものの、痔が再発して出血が止まらなくなったらしい。ザマアミロである。因果応報とはこのことだ。 泣きたい。
そんなわけで、「愛」について話したいと思う。
自分は以前から「愛」という言葉がとにかく気に食わなかった。なんかいけ好かない。なんだか口にしたくないし、どうにもむかつく。「愛」などという言葉を平気で口に出せる奴は結婚詐欺師に決まっているので、全員、刑務所にぶち込めばいいと思う。
で、何故そんなに「愛」という言葉が気に食わないかを考えてみたのでここに書いてみる(暇って素晴らしい)。
まず「愛」の定義であるが、今問題にするのは「俗にいう愛」のことであるので、語源とか本来の意味とかはどうでもいい。単純に「愛している」は「好き」の上位の言葉、「愛」は「好意」の上位の言葉、ということにしておく。
上位というからには「好意」を上回る必要があるのだが、しかしそもそも「好意」という言葉には「程度(どれ程好きか)」「持続性(いつまで好きか)」「恒常性(どれほど気持ちが変わらないか)」「対象範囲(ある個人か、ある集団か、全人類か)」などの複数の要素が含まれている。
では、どの要素がどこまで強くなれば「好意」が「愛」になるのだろうか。あるいは、どの要素が必須で、どの要素が必須でないのだろうか。はたまた、対象範囲は広いほうが尊いのか、狭いほうが深いのか。「好意」と「愛」の境目はどこにあるのか。
まぁそこら辺はしょせん定義の問題に過ぎない。しかし誰にも文句の出ない「愛」の定義を決めようとすると、「程度」「持続性」「恒常性」という要素がどうしても重要になってくる。
つまり「愛」は「好意よりも上のもの」という定義上、「限りなく深く、永遠に変わらずに続く」という性質が、自動的にニュアンスとして含まれることになるのだ。あえて言わなくても、である。
そしてその中の、「永遠に変わらず続く」というニュアンスに、自分はとてつもない胡散臭さを感じるのである。もちろん、それが事実ではなく、あくまで理想であるということは理解している。しかしそれでも尚、「永遠に変わらず続く」に好ましい気持ちを持てないのである。憧れも全く持てない。それは何故なのか。
…恐らく、自分が日本人だからではないだろうか。
つまり日本人の価値観として「永遠」とか「不変」よりも「刹那」とか「無常」等のほうに価値を認める傾向があるので、「どこに行っても永遠に変わらぬ愛」とやらに憧れや畏敬の念を持てず、したがってそもそもリアリティーの無い「どこに行っても永遠に変わらぬ愛」が大変に胡散臭く感じられるのではないだろうか。そんなものより「その場でその時にのみ成立する儚い好意」の方がよっぽど素敵じゃないか。
まぁ日本人以外の友人がいないから、上記は確かめようも無いけど。
ああ、どこかに欧米育ちで日本在住金髪細身巨乳で自分に果てしなく深い好意を抱く女性はいないものか。そしたら色々確認出来るのに。残念至極である。