この世の背景

主に、どうしようもないことを書いています。

作者と作品

佐村河内守とかいう「耳が聞こえない作曲者」の耳が実は聞こえました。曲は別の人が作ってました。ええー!そんな!この詐欺師!!

 

てな話題で巷は盛り上がっていたけど、ソチオリンピックに加えてこの記録的な大雪で、奇麗に忘れ去られております。暴露するにはまさにベストタイミング。そこだけは褒めてあげたい。

 

でまぁ「そんな人もいるよね、世の中には」なんだけども、下記の視点は気になるところである。

 

作品と作者は切り離して評価することはできるのかって話 - ネットの海の渚にて

 

そもそも作品はその生みの親に紐付けられて常に同時に評価されるべきなのか?
純粋に作品そのものだけを評価することは不可能なのか?

 

ちなみにこれが、例えば数学の理論について

 

 ・そもそも理論はその生みの親に紐付けられて常に同時に評価されるべきなのか?

 ・純粋に理論そのものだけを評価することは不可能なのか?

 

と問いかけるのなら、答えは非常に簡単である。人柄と関連づけて評価されるべきではないし、また、理論だけを評価することも可能である。物理の理論も、テストの答案も、同様である。

 

つまり、純粋に絶対的な評価が可能であれば、それを生みの親などと紐付けて評価する動機は生まれない。純粋に「そのもの」だけを評価することが困難な場合にのみ、その生みの親を含め「そのもの以外のもの」を紐付けて評価する可能性が生じるのだ。

 

ちなみに音楽の評価が、誰にとっても感性の問題で曖昧なものである、とか思ったら大間違いで、世界にはちゃんと純粋に評価出来る人がけっこういる。そのような人達の間では余程先鋭的な作品でない限り、各作品の評価はかなり一致する(好き、嫌いは別として)。そんな彼らは、作品と作者を過度に結びつけたりしない。

 

が、そのような「本当の音楽ファン」とでも言うべき人は、少ないのである。いや、少ないと言っても、クラシック好きの中にはかなり多いのだが、そもそもクラシック好き(平時によく聞き、よくCDを購入する人)自体が少ないのである。

 

だから、佐村河内守を売ろうとするなら、ターゲットをそのような「本当の音楽ファン」には絞らない方がいいだろう。レベルの高い曲が望まれるし、絶対数も少ないしで、いいとこなしである。

 

むしろその周囲の「ライトなクラシック好き」をターゲットにした方が絶対数が多くて有望である。あるいは「苦境に立ち向かっている人が好き」なだけで日頃はクラシックをあまり聴かない人も、数の多さからターゲットとしては美味しそうである。

 

そのような人々は、まだそれ程耳が肥えてないし、クラシックの雰囲気に浸るだけで高級な気分になって満足するような人達なので「作者の耳が聞こえない!」辺りの付加価値をつけて、それっぽい曲を聴かせれば十分なのである。まぁ曲も全くデタラメではないようだし(よう知りませんが)。

 

そのようなターゲットが、「実は作者の耳が聞こえた!」なんて知ったら、そりゃがっかりするし、怒る。そして怒りは、佐村河内守本人はおろか、売ろうとした人達(マスコミ含め、持ち上げた奴ら)に向かう可能性があるので、それは困ると売ろうとしてた人達が手のひら返して佐村河内守を非難する、安全なところから人を叩くのが好きな奴らがそれに便乗する…

 

という、いつも通りの茶番が繰り広げられているだけで、そもそもそこに本当の音楽ファンは登場していないのである。大概のちゃんとした音楽ファンは、作者と作品を分けて評価しているのである、ひっそりと目立たないところで。

 

しかし、こういう大きい嘘ついて、後に引けなくなった人を見るのは、とっても楽しいね!!