「宗教」のうさんくささと言えば、見たこともない「神」を信じさせようとすること、に尽きると思う。
で、息まいて信者相手に「神の存在」を否定しようとしてみても、「何かが絶対に存在しないこと」を証明するのは非常に困難。その「何か」の定義自体に決定的な理論的破綻でもない限り不可能なわけで、始まる前から負け戦。
しかし信者が信じている「神」の「性質」に焦点を当てると話は変わってくる。「神」が「そのような性質」であると、信者が信じるに至った経緯や手段(偉い人の話や、自分の体験、経典などなど)について検討できるからだ。すると実は信者が信じているのは「神」なんかではなくて、その経緯なり手段に過ぎないということがわかるだろう。で、「はいはい、お前が信じてるのは神じゃなくて、○○(経緯や手段)じゃないか。なんで○○を信じてるんだよ?ああん?」と問えばいい。
そこで信者が「だってその○○は自分を救ってくれた」とか「その○○が素晴らしいから」とかなんでもいいけど理由が聞けたら「ふーん」と言っとけばいい。自分の都合で信じることにしたのなら、別に文句ねーや。
でもそれって本当に「信じてる」ってことになるのかね?
また、「直接神と話をした」「実際に神と交信した」とか言ってるアレな人相手でも、その体験をこちらが検討することはできる(アレな人自身の検討する能力は失われているだろうが)。直接体験してもそれが事実とは限らない。例えば統合失調症やてんかんにおいて、宗教体験はめずらしくない。
要は、検討されるべきは「神の存在」ではなく、「そのような神」と知るに至った「経緯や手段」であり、その意味で宗教は必ず論理的で現実的な検討を受ける羽目になるのだ。