この世の背景

主に、どうしようもないことを書いています。

建前って素晴らしいよね。

建前があるからこそ、人は他人との関わりの中でも、自由に思考することが出来る。

 

ここでいう自由とは、まずは道徳からの自由である。

道徳に沿わない結論に至る理論を表出すると、いかに理論的に正しくても非難されることがあるし、それどころか、そのようなことを仮定することさえ許されないこともある。また、実際に結論を下してしまったら集団から疎外・迫害されてしまうかもしれない。だから、適当に道徳的な答えを用意しておく。

 

次に、理論的であることからの自由である。

人間はコンピューターではなく生物なので、思考に感情的な、あるいは直感的な結論が大量に混じる。そしてその感情は褒められるような類のものばかりではないし、直感的な結論は正確さに欠けるかもしれない。

しかしそれでも、非理論的な思考は、思考速度を跳ね上げてくれる。これが無いと、思考が実生活に対応することは事実上不可能だ。また、理論的な思考の結果よりも、体験に基づいた非理論的な思考の結果の方が正解率が高い分野は、特に日常生活の中では多く、一概に程度の低い思考とは言えない。

それにもかかわらず、非理論的な思考は表出すると非難される傾向があるので、とってつけたような理屈で修飾しておく。どんな拙い理屈でも「なんとなく」よりは受けがいいのだ。

 

そしてもう一つ、社会の求める思考の方向性からの自由である。

ある社会、まぁ社会といわないまでもある集団に属していると、世界の情勢とか、政治・経済とか、学校・会社で誰がどうだとか、「その社会(集団)でそれを考えておかないとやや困る」という形で、思考の方向性を制限されてしまうことがある。全く興味がないのにそのようなことを考えるのに時間を費やすのは、全く持って人生の無駄遣いに他ならない。

「俺はもっと他のことを、下品なこと、卑劣なこと、下らないこと、取るに足りないこと、何の現実的な利益ももたらさないことを考えたいのだ」・・・そういう時に、適当によく聞く答えを建前として用意しとけばいい。

 

まだあった。自分の思考が他人に与える影響からの自由である。

例えば、重大な問題の原因がAさんにあるという結論が出たとして、それを口にしてしまうと問題はさらにこじれるかもしれない。誰かの能力が誰かより劣っているという結論に至ったとして、それをはっきりと言うと、誰かを無駄に傷つけるかもしれない。なんでも口にすればいいと思っているやつは、ただの無神経な無能に過ぎない。

 

まだある。自分のプライドを傷つけられる危険性からの自由である。

本音を晒して否定されたりしたら、プライドが傷つく。もちろんプライドを傷つけられることをむやみに恐れては何も出来ないが、傷つけられるのは誰だってしんどい。意地悪な人間だってこの世にはいるのだから、いつでも無防備である必要は無い。本音を隠して身を守ったって恥じることは無いのだ。

 

他にもありそうだけど、もういいや。

 

とにかく、そういうわけで建前は素晴らしいシステムである。

 

本音なんか教えてやらない。

大雑把で無神経な人間だけが、本音を晒して生きていけばいいのだ。