今更改めて言うほどのことではないかもしれない。誰でも知っていることなのかもしれない。しかし条件によっては、人はすぐにこの至極当然の事実を忘れしまう。
つまり、コントロールしようとする相手(個人の場合も集団の場合もある)が
家族(親族)である場合
立場が下である場合
親密な間柄である場合
言葉が通じる場合
これまでコントロール出来ていた場合
社会の常識から外れていることをしている場合
自分が出来たこと・出来ていることをしていない場合
道徳的に悪いことをしている場合
理由のないことをしている場合
意味のないことをしている場合
である。こういう時、人は相手に対して「正しい手段で働きかければ、絶対にコントロール出来る」などと考えがちである。そして、その「絶対」が裏切られたとき、ある人は激高し、興奮し、攻撃的になったり、ヒステリックな反応を起こしたりする。またある人は混乱し、落ち込み、絶望するかもしれない。
しかし繰り返すが、どんな相手でも、どんなに正しい手順を踏んでも、コントロール出来るとは限らないので、そんなに感情的になることはないのである。相手のことを犬とでも思って、さっさと諦めて次に行った方がいい。というか、次に行くしかない。そこの諦めがつかない人間は、どこかで不具合を起こすことになる。
先程、相手のことを犬と思えばいい、と言ったが、これは単なる皮肉ではない。そもそも人をコントロールできると思い込んでいる奴は、人間の言葉や理性を過大評価しているのである。人間の言葉なんて根本的には犬の鳴き声と大差がないし、理性は人間の行動に一部影響を及ぼすに過ぎず、その他の行動原理はやはり犬とかわらない。相手が犬なら諦めるのに、人間なら諦められないなんて、全く馬鹿げている話なのである。
それともう一つ、コントロール、というのは行動のみでなく気持ちをも含む言葉である。誤解を解くこと、仲直りすること、理解しあうこと、納得させること、等を含んでいる。当然これらだって、どんなに正しい手順を踏んでも達成できるとは限らないのだ(だからこそ、達成できたら大事にした方がいい)。
要するに、友人も、部下も、同僚も、恋人も、妻も、親も子も、泥棒も、殺人鬼も、いかれたテロリスト集団も、全て犬だ。だから、言語的・理論的・理性的な働きかけなんかに執着したって無駄だ。執着している人間は、自分が今ヒステリックになっている可能性に目を向けた方がいい。どうしてもコントロールしたいなら、それ以外の行動原理に注目して働きかけた方がよほど効果があるのである。
まぁもちろん、それでも必ずコントロール出来るとは、限らない。