この世の背景

主に、どうしようもないことを書いています。

ミニマリストの定義と分類と曖昧さについて。あるいは未知の山への登り方について。

ミニマリストという言葉が世間に広がるにつれ、ミニマリストとは何か、という当然の問いが発されて久しい(ミニマリストっていうのは簡素清貧ってことでいいかな? - ネットの海の渚にて)。

 

しかし未だその界隈からしっかりと答えが出ていない(あるいはよくわかっていないのか?)様なので(●【ミニマリストの定義や思う事】ブログの記事を集めたよ - 風の他人の姫姉様)、ここはミニマリストの一人である自分が、非常に僭越ながら、しかし責任を持って答えさせて頂こうと思う。

 

前もって答えておくが、「ミニマリストの定義を知らないのにミニマリストを名乗れるのか」という、もっともな問いが散見されるが、これは実は可能なのである。それも合わせて以下に示したい。

 

 

前提:ミニマリストとは

 

そもそもミニマリストの言う「ミニマム」とは何か。直訳すると「最小」「最低限」となるが、この場合は「必要最低限なもの」を指す。つまり、ミニマリストとは大まかに言って「必要最低限なもの(形の無い物を含む)だけを所持する人のこと」である…というのは、巷でよくみられる根本的な間違いであって、実は全くそうではない。

 

ミニマリストとは「必要最低限のものだけを所持することへの指向性がある(目指そうという気持ちがある)人」のことなのである。つまりミニマリストとは目標とする存在ではなく、その方向へ歩いていこうとする者を指す言葉なのだ。

 

本質的に重要なのはその方向へ歩こうという意志を持つことなので、最初から厳密に「必要最低限」や「どのように歩くか」などについて定義する必要は全く無い(そして、しない方が良い)。漠然と「そうあろう」と思ったときから人はミニマリストと自称して良いのである(仏教の教義を完璧に理解していなくても、仏教徒になれるようなものである)。

 

そしてその方向性に従ってミニマリストとしての道を歩むことなるのだが、その進み具合によって以下のごとく分類されることになる。

 

 

第一段階:指向する人

 

先ほどその方向性を持つことが本質的に重要と書いたが、その起点となるのは「無駄なものを多く持っているな」という自覚と「無駄なものを無くそうかな」という意識である。だからその自覚と意識さえあれば、実際に行動に移していなくとも初期のミニマリストと言える。

 

この「まだ行動はしていないが自覚と意志はある」初期段階のミニマリスト「指向する人」と呼ばれている。「指向する人」も含めると、ミニマリストの懐はまことに広大で、そしてこの寛容さこそが、多くの人に受け入れられている原因と考えられるのである。

 

 

第二段階:開く人

 

では実際に行動に移す人の話に移ろう。さてここでも「最低限を目指すっていっても、何をするのに最低限のことかがわからないと目指せないよ」というあなたは非常に賢明であるが、同時にややせっかちでもある。

 

というのは、この段階では取り敢えず「明らかに不要なもの」のみを捨てれば良いのだから。それこそゴミとか、たまった領収書とか、使ってないポイントカードとか、数年使っていない衣類とか。そして今後はそれを溜め込まない様に気をつければよい。

 

そうして「明らかに不要なもの」を減らすことにより、ごちゃごちゃしていた視界が徐々に開けてくるのである(物理的にも精神的にも)。これこそが大事なのであって、従ってこの段階のミニマリスト「開く人」と呼ばれる。また、この段階に至った人は、そのほとんどが次の段階の存在に早々に気づくであろう。

 

 

第三段階: 見渡す人

 

どんどんものを捨て始めると、どこかで「不要なもの」と「必要なもの」の境目が曖昧になってくる。つまり、境目を見極める必要が出てくるのだ。そしてこの時初めて先ほどの問い「最低限とは何をするのに最低限なのか」が重要となってくるのである。

 

まぁ大雑把に言ってしまえば「充実した人生を送るため」ということになろうか。もちろん人によって「充実した人生」は異なるから、この段階では、捨てるもの、残すものに個人差が大きく出始める。だから「皆はこれを捨ててるけど、私はどうしても捨てられない」なんていうのも全然あり得るのである。

 

要するにこの段階で大事なのは、絶対的にものを減らすことではなく、自分が本当は何を必要として何を必要としていないかを見つめ直すことである。それはつまり、自分のこれまでの人生を振り返り、そしてこれからの生き方の見通しを立てる行為に等しい。だからこの段階で悩んでいるミニマリスト「見渡す人」と呼ばれる。

 

この段階が最もストレスフルかもしれない。しかしそのストレスは変化に伴う必然の痛みなので、甘受しようではないか。

 

 

第四段階:進む人

 

ある程度の見通しが立てば、後はどんどんと捨てていけば良い。そしてその過程で、「あ、やっぱりあれ必要だったな」とか「要ると思ったが、これ要らないな」などという経験を積んで、自分の人生観に磨きをかけていくのである(その過程で元々持っていなかったものが必要になることさえあり得る)。

 

この段階まで来たらその人の人生観は以前よりずいぶん鮮明になっているだろう。「もの」はかなり減っているし、本当は不要なものに執着して苦しむ、ということも減っている。心が軽くなったことを実感出来、一時的に高揚感すら感じるであろう。

 

このように、ものを捨てるという行為を通じて自らの人生に対しての洞察を深め、より良い生き方を得て意気揚々と再度進み始めるこの段階のミニマリストは、「進む人」と呼ばれることになる。

 

では次に進もう。

 

 

第五段階

 

ここまでミニマリストは、ものを捨てることを通して、元々の自分の人生観を磨いてより明確なものにしてきた。つまり、本質は変化していない。しかし「進む人」となって突き進む今、そもそも自分が持っていた人生観は、これまで無駄なものに埋もれて乱雑に生きて培って来たその人生観は、果たしてこれからのミニマリストとしての生き方にフィットするのだろうか。

 

しない。徐々に齟齬が生じてくる。

 

そう、この段階にくると、元々の自分の人生観に合わせてミニマリストとなっていたはずなのに、徐々にミニマリストに合わせて人生観の方が変化し始めるのである。自分が中心に据えていた物さえ、実はそれ程重要でないと感じ始めたり、邪魔臭く思い始めたり、あるいは逆にこれまで(ミニマリストになる前から)捨てていた物が実は重要だと判明したり。

 

この段階になると「進む人」に認められていた高揚感はすでにない。そこに残るのは、むやみに開けてしまった視界と、そこに立ち尽くす「無駄なもの」という衣服を持たない、寒々しい自分の姿だけである。従ってこの段階に至った希有なミニマリストは、ストリーキングの人」と呼ばれることになる。

 

 

そして、その先へ(未知の山への登り方)

 

これより上の段階があるのは間違いないのだが、それがどういう性質のものなのか、自分は寡聞にして知らない。ただ一つ確かに言えるのは、最終的な目的地がどんな所かわからなくても、目指すことは出来る、ということである。現に、「ストリーキングの人」のことを知らなくても、片付けは出来るではないか。

 

それはさながら未知の山に登る時に似ている。頂上がどこにあるのか、どこから登るのが安全なのか、どうやって登るのが効率的なのか、誰も知らない。しかしどこかに頂上があることは誰もが知っているし、どちらが上なのかも何となくわかる。だから、登るしか無い。頂上が見たければ、ただひたすらに。

 

ミニマリスト(登山者)のあり方が曖昧に思えるのは、まだ誰もその山頂に達しておらず、誰もが手探りで動いているからではないだろうか。山頂にたどり着く人間が出現し、そして増えれば、効率のいい経路、登り方、目的地などもはっきりしてきて、登山者のあり方もまとまってくるのかもしれない。

 

…あるいはそもそも登山ではなくピクニックが目的で、本気で登る気が無い奴らばかりだから曖昧、ということも考えられるか。まぁ、山頂に着いてみればなんのことはない、これまでに誰かが幾度となく登った山と同じ山であった、なんてオチも十分ありそうだし、それくらいの軽い気持ちがいいのやも知れぬ。

 

 

以上が大まかなミニマリストの定義と、各段階の説明と、その曖昧さの理由である。

 

お分かりだと思うが、ミニマリストとか、その手のライフスタイルの追求は程々にしておいた方が良い。下手に山頂を目指すと、遭難したり、ひどい所にたどり着くだけかもしれない。皆で仲良く慣れ合いのピクニックをしているのが最も安全で楽しいし、実際、賢明なみんなはそうしてるよね!

 

 

以上、余談。以下、余談。

 

 

ちなみに自分のミニマリストの段階は「指向するのが面倒くさい人」くらいである。どちらかというとマキシマミスト(主にゴミ屋敷の住人が該当)の方に近いので、困っています。だれか整理術教えて。