この世の背景

主に、どうしようもないことを書いています。

物語におけるリアリティの在処

訳あって、物語のリアリティについて話したいのである。

 

前もって言っておくが、ここで話題にするのは物語の「狭義のリアリティ」についてではない。つまり、頭がアンパンで出来た男が、自らの頭をもいで言語を操るカバに与えることが現実にあり得るかどうかとか、人格を持ち「ハヒフヘホ」などの奇怪な鳴き声を発する人間大の菌が実在するのかどうかとか、そんなことを話題にするのではない。

 

そうではなく、もっと根源的な、物語に滑らかさを与える、逆にそれがないと物語がでこぼこになるような、そういうリアリティについて話題にしたいのである。それをここでは「物語のリアリティ」であると仮にしておく。

 

まず物語は基本的に、ある「キャラクター」を持つ主体が、ある「環境」で、ある「行動」をする、ということを基本単位として成立している。

 

そして、前述した「狭義のリアリティ」とは「キャラクター」と「環境」に関するものである。ここの設定が現実離れすればする程、狭義のリアリティは無くなっていく。例えば、環境が地球であるよりも漂流する宇宙ステーションである方が、あるいはキャラクターが人間であるよりも宇宙人である方が、一般的にリアリティが減る。

 

しかしまぁ、実はそれは「物語のリアリティ」とは関係がないのだ。たとえ主人公が猫だろうが、ユニバーサル横メルカトル図法で描かれた地図だろうが、あるいは物語の舞台が火星だろうが、核戦争後のモヒカンが跋扈する世界だろうが、どんなとんでも設定であってもリアルな物語は生まれ得る。

 

では、「物語のリアリティ」はどこに宿るのか。

 

それは「キャラクター」「環境」「行動」そのものではなく、それらの関係における整合性や一貫性の中に宿るのである。

 

なので、冷酷な敵が何の理由もなく突然主人公に情けをかけてはいけないし、ヤンデレなあの娘が些細な出来事で安易に改心してはいけないし、CIAに所属しているはずの人物が馬鹿であってはいけない(ギャグ以外は)。

 

そこら辺がしっかりしていないと、物語は真の意味で、かつ悪い意味で「なんでもあり」になってしまう。人物や出来事がその次の展開とある程度の妥当性をもってつながらないのなら、そのような最低限のリアリティさえ捨てるのなら、その物語を追う意味なんかもはや無い。物語としての価値がない。どんな斬新な世界設定も、どんなに魅力的なキャラクターも、どんな神展開も、むなしいだけだ。作る側の都合や思惑がごつごつと飛び出した、死ぬほどうっとうしいなにかが残るだけである。

 

設定と設定の整合性や一貫性を保ってこそ、奇抜な設定や突き抜けたキャラクターが意味を持つのだ。フィクションなのに自然さや説得力が感じられるようになるのだ。だから、物語は設定を作ったら終わりじゃなくて、大筋を作ったら終わりじゃなくて、ちゃんと整合性と一貫性を持つように、慎重に動かされるべきなのだ。

 

 

・・・てなことを、TVドラマの方の『極悪がんぼ』を見ながら考えずにはいられなかった。

 

もう、見ながら、ずーーっと考えてたね、この脚本の駄目さについて。なんだろうな、たくさん見ているわけじゃないんだけど、TVドラマの脚本って大勢の目に触れる機会があるわりに、同じくらいに読まれている小説とか漫画とかに比べて、明らかに下手糞な気がする。

 

まぁ要するに、「僕の尾野真千子に、報われない仕事をさせないで!!」ということですよ。