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この世の背景

主に、どうしようもないことを書いています。

「キモい」「ウザい」が世にはびこる5つの理由

最近ネット上で、「キモい、ウザい」について目にすることがあった。

 

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他人の悪口が三度の飯より大好きな自分としては、この話題に言及しない訳にはいかない。ただ、いきなり「キモい、ウザい」を語るのは難しいので、まずは基本からおさらいしようと思う。

 

最初に、悪口は大まかに2つのタイプに分かれることを指摘しておく。それは、「評価系悪口」「感覚系悪口」である。

 

「評価系悪口」とは、そのまま「悪口を言う対象の評価」であり、代表的なものに「バカ、アホ、間抜け」などが挙げられる。他に「低能」「無駄飯ぐらい」「スイーツ」などなど。

 

「感覚系悪口」とは、「悪口をいう主体の感覚」であり、これから話題にする「キモい、ウザい」はこちらに属することになる。というか、感覚系悪口のエースが「キモい、ウザい」である。

 

で、リンク先のブログによると、最近は感覚系悪口のエースこと「キモい、ウザい」が幅をきかせているとのことである。

 

理由は色々あるのだろうが、最近の価値観の相対化と、心の重要性をやたらめったら強調する風潮は、感覚系悪口がはびこるのに一役かっていそうである。「○○ちゃんはどう思うの?」「うざーい!」てなもんである。一昔前の、わかりやすい価値基準が幅をきかせていた社会では、やはり「バカ、アホ、間抜け」といった評価系悪口がしっくりきていたのではないだろうか。

 

しかし理由はそれだけではない。感覚系悪口が元々持つ便利な特性が、ある人達に受け入れられているからこそ、こうも幅をきかせているのだ。

 

下記にその便利な特性を挙げてみる。

 

 

1.語彙が不要である。

 

まず評価系悪口について。先ほどはわかりやすい様に「バカ、アホ、間抜け」というごく単純な例を挙げたが、実は評価系悪口は非常に多様なのである。というより、この世のありとあらゆる単語が、場面に応じて評価系悪口となり得る(例:「白ぶた」「生ゴミ」「芳香剤」「爆心地」など)。また、修飾語も豊富で、組み合わせも入れると、その数は無限大である(例:「死にかけのラクダ」「腐ったゲロ」「焼け残ったセルロイド人形」など)。どれを使おうか、悩んでしまうのである。

 

それに比べて感覚系悪口は少ない。ウザい、キモい、きしょい、うっとうしい、ムカつく…など。バリエーションが、評価系悪口に比べて極端に少ないのである。語彙が無くても使用に問題が無いので、凄く頭の悪い人間でも堂々と使うことが出来るのだ。

 

 

2.理論的な思考が不要である。

 

評価系悪口は、反論される可能性がある。例えば「このバカ!」と言うと「そんなことない!」や「どこがよ!?」など。つまり、「○○は〜である」という評価には、常に間違っている可能性があり、そこに付け入られる隙があるのである。付け入られると、言い合い(理論の応酬)となってしまうので、理論的な能力が必要とされる。

 

それに比べて感覚系悪口は、悪口をいう主体の感覚そのものであるので、どんな反論も受け付けない。主体がそう感じているなら、どうしようもないのだ。それは紛れも無い事実なのである。「キモい」に対して何を言い返しても、「だってマジでキモいもん」で議論終了である。だから、感情的で非理論的な 猿達 人達に大人気である。

 

 

3.工夫も不要である。

 

評価系悪口は適当に使うと、相手にダメージが少ししか入らない。例えば単純に「バカ」などと言ってみても、相手は内心「そんなことないもん」と思って防御することが出来る。大きなダメージを与えるためには、ある程度相手に「そ、そうかも」と思わせるための工夫が必要である。

 

しかし感覚系悪口の場合、どの言葉を使っても、「悪口を言っている人間がそのように感じている」というのは全くの事実なので、相手は内心で「そんなことない」と否定することが出来ない。防御不可能である。

 

しかも悪口を言われた人間が、「あいつが自分のことをウザいと感じるということは、他の誰かも自分のことをウザいと感じる可能性がある」という推論(推論自体は正しい)を自ら行うことによって、遅効性の毒の様に勝手にじわじわとダメージが深まるのである。なんの工夫も要せずに相手にダメージを与えられるので、どんな無能でも安心して使えるのだ。

 

 

4.忍耐力も必要ない。

 

評価系悪口は「評価する」という、対象への積極的な働きかけである。つまり悪口の主体は積極的に対象を攻撃しているニュアンスになりやすく、これはある程度、悪口を言う主体の良心を刺激するかもしれないし、あるいは周囲も悪口を言っている人間に対して、非難の目を向けやすいかもしれない。自分の良心からの呵責や、周囲の非難感に耐えられる者にのみ、評価系悪口は許されるのだ。

 

それに比べて感覚系悪口は、「そう感じている」という受動的な体験に過ぎない。なので、主体にとっても、周囲にとっても「だってそう感じるからしょうがないじゃん」であり、「積極的に攻撃している感」が薄れる。つまり、良心の呵責や周囲の非難をあまり感じないまま相手を攻撃出来る、根性無しの卑怯者向けの仕組みになっているのである。

 

 

5.安易に仲間と結束できる。

 

もちろん評価系悪口においても、仲間からの共感は得られる。しかしながら、そのためにはピッタリくる上手い評価を創出する必要があり、手間がかかる。

 

それに比べて感覚系悪口は、大体が「不快感」という非常に汎用性の高い感覚に収束するので、例えば何でもかんでも「キモい」と言っても、大きく外しはしないのである。大した労力もなく周囲との共感を形成しやすいので、とにかく簡単に誰かを貶めて仲間の結束を固めようとする、ザトウムシのような奴らにとって、非常に便利なのである。

 

 

 

以上の5点である。

 

まぁ要するに感覚系悪口は使いやすいので、幼児が好んで使用することに、何ら不思議は無いということ。ある程度はしょうがないのである。

 

いい年して頻繁に使っている奴らもいるけど…まぁ、なんというかね、残念ながら人は平等ではないしね、優しく見守ってあげようではありませんか。優しさは必要ですよね。うん。