この世の背景

主に、どうしようもないことを書いています。

心と世界の断絶

いくら想ってもあの人には伝わらないし、いくら心の中で苦しんでも誰かが優しくしてくれることは無いし、いくら呪ってもあいつは死なない。

 

 どんな想いや怨念や苦痛が心の中で渦巻いていても、世界には何の影響もない。心(精神)と世界は断絶しているのである。

 

しているのだが、「心と世界はつながっているかもしれない。影響を与えるかもしれない」と、感じている人は少なくないはずだ。そうでないならば、超能力や霊能力の類いがこうも世に憚ることはないし、かめはめ波が出るように念じてみる奴もいないだろう。

 

なぜその様に感じるか。

 

そもそも人間(というより、きっとあらゆる知的生命体)は、心の中と外の世界を同時に体験するような構造になっているため、どうしてもその区別に曖昧な部分が生じやすく、「心と世界がつながっている」という誤解が生まれやすい状態にある。

 

それに加えて、幼小期の、苦しい時や悲しい時、嬉しい時に周囲が反応した体験*1、あるいは、「何かを念じていたら、(偶然)何かが起こった」という体験が重なり、「心と世界のリンク」という幻覚を生じさせるのだ。

 

そして上記の体験は全ての人間にみられるわけで、ほとんどの人間は、心と世界のリンクを多少は「感じる」のではないだろうか(それが事実と判断するかどうかは別である)。実際には全く無いにもかかわらず。

 

感じられた「心と世界のリンク」は、時にはどのようにリンクするのか十分な説明も無しに、ただただ「心は世界に(あるいは他人に)影響を及ぼす」と断言されることもあるし、超能力や霊能力などの存在を通して正当化されることもある。

 

しかしまぁ、どんな説明を与えられたところで、「心が世界に影響を与える」ような感覚は、実際には度々裏切られることになり、そのストレスゆえに人は「心(何らかの思いなど)が世界に影響して欲しい」という願いをどこかに抱える様になるのである。

 

無駄だなぁ。

 

以上本題。以下余談。

 

 

そういう目で見たら、物語の中には「心と世界をリンクさせること」が重要な要素になっているものが、けっこうある。まぁそれ自体は嫌いではないけれど、心と世界をつなぐ部分には気を使って欲しいなー、と、思うことが時にあるのである。

 

例えば、そこにオカルティックなものを堂々ともってこられると、超萎えるし(某ばななとか、女性に多い気がする)、あるいは、超能力すれすれの敏感な女性が「無意識に感じ取って」的なものも超萎える(某春樹とか)。

 

いや、オカルトも、物語全体的のフィクション度(?)から大きく外れていなければ違和感がないのだろうが、どうも小説にはそこら辺のバランスを欠いているものが目立つ気がする。そこだけフィクション度が跳ね上がっているというか。お前、そこをそれで乗り切るの!?的な。

 

漫画はその点、全体のフィクション度が高くて、何があっても目立ちにくいものが多いから、読んでてそういう面でストレスを感じることはあまりない。何が起こっても許せてしまうのである。

 

余談終わり。

今日も平和だ。

 

*1:むろんこれは、幼児特有の状況から類推出来る単純な心情と、わかり易い表情によるものであって、心が周囲に伝わっている訳ではない