この世の背景

主に、どうしようもないことを書いています。

他人の評価なんか気にするなよ(?)

などと巷ではよく聞く話である。自分もそう思う。ついでに他人にも言う。が、自分の人生を振り返ってみると、自分の評価の基本がしっかりと上がったのは、はっきりと他人のせいであった。

 

他人と言っても、友人でも同僚でも指導者でもなかった。なぜなら、昔はあらゆる人間を見下していたからだ(The 思春期。当然、同時に劣等感に苛まれていた)。見下している奴の評価なんてどうでもいい。つーかそもそも評価もされない。もし、いい評価されたって信じられない。お情けだろ。俺の方が低いことが分かっているからこそ評価してるんだろ。け。

 

じゃあ誰のせいかというと、それは女性である。

 

まず、自分は中高と女性とほとんど話さなかった。これは誇張ではなく、意味のある言語を、ほぼ交わしていない。女性、なにそれ、美味しいの?の世界である。いや、美味しいのは知識として知っているけど、そんな、目を合わすなんて恐れ多い。目がつぶれるに違いない。

 

そんな自分が大学生になって一念発起し、女性の多いサークルに入ったのだ。かなりの覚悟を要した。リハビリ、あるいは修行のため、死ぬ覚悟で、という心境であった。そして、女性に慣れ、なにかのきっかけに付き合うようになった。

 

中高で恋愛を楽しむような、色情狂で世界の敵な糞リア充どもには分からないかもしれないが、女性と付き合うというのは、そして肉体関係を持つということは、凄い体験なのである。何が凄いのか。

 

それは「自分は嫌われていない」という「確証」が得られるということである。

 

友人や同僚といくら楽しくやっていたって、そんなのは相手が社交性を発揮しているだけ、あるいはしょうがないから自分と遊んでいるのであって、裏では悪口を言われているかもしれないし、馬鹿にされているかもしれない。親だってそうだ。自分のことは、自らの子供だから世話しているだけで、好きじゃないに違いないし、どうせ見下しているんだろう。なんて考えがどーしても侵入するわけだ。なんせ思春期だから。

 

でも自分と肉体関係を持ってくれる女性(金銭関係なしに)は、自分のことが本当に好き…ではないにしても、まぁ嫌悪感は持っていないと信じられる。根拠が言葉でなく、行動であるから、そこに疑いは生まれない。

 

自分の存在価値(?)が、疑いなく証明されたのは大きかった。今にして思えばしょうもないが、残念ながら、自分の転換点は間違いなくそこであった。

 

それ以降は…まぁ大学デビュー組によく見られるように、かなり遊んだ。なんせ自信をもっており、かつ異性への欲望が出口を見つけたことによるエネルギーに満ちていたので、結構モテた。これまで卑屈に他人を観察したり、嫌々他人に話を合わせたりして培われた技能は、全て異性との交遊に役立った。そして経験はフィードバックされ、ますます技能は上達し…。

 

で、気付いたら、他人の評価に対して全然動揺しなくなっていた。不思議なことに、女性関係以外についても。どうやら、なんというか「根源的な自信」あるいは「存在に関する自信」みたいなものが身に付いたらしい。こんなしょうもないことで。本当、しょうもない。同時に、世界に対して、多少は肯定的になれた。

 

まーしょうもないけど、そんなもんだなー、なんて思った訳ですよ、以下を読んで。

 

おれの半生と未来

 

もちろん、今は多数の異性との交遊はしていないが、自信は継続している。これには仕事が上手くいっていることも影響しているだろうけど、以前の女性との関係なしにはやはり、あり得なかったんじゃないかなぁ。

 

おおざっぱに言うと、人生何がどう転ぶか分からないねー。