この世の背景

主に、どうしようもないことを書いています。

才能と環境と努力

「産まれと才能>努力」だと思う人が、ひと昔前より増えていると感じるし、実際「努力が報われない世の中」になっていると思う

 

読んだ。「ひと昔前に比べて~」とか、「遺伝の影響が想像以上に~」とか、突っ込みどころの多い導入ではあるけど、まぁそれはおいといて努力の価値について思うところを。

 

そもそも、「努力が報われない」という人たちは、努力のみかえりとして何を期待しているんだろうか。そいつらの言う成功者ってなんだ?みんな世界陸上出場とか、オリンピック出場を期待しているわけ?それとも大富豪??アメリカンドリーム級のみかえりが欲しい?世界の頂点に立ちたいの?

 

ならば確かに、努力が直接与える影響は少ないものになるだろう。類まれな才能と環境、運なんかが非常に重要になるし、それなしには不可能だろう。為末大の発言はただの真実だ。が、それでも努力をしなければ、才能や運があるかどうかのギャンブルにそもそも参加出来ないことになるわけで、努力ってのはギャンブルへの参加券ってことになる。

 

もしかして、ギャンブルじゃなく、努力すれば必ず世界のトップグループ(どんなジャンルであれ)に入れると思っていた?本気で?そんな時代はこれまでもないし、これからもないことぐらい、薄々知っているでしょう。もし本気でそう思っていたなら勘違いも甚だしいというか、お花畑というか。

 

「しょせんはギャンブルなら、努力なんかしたくない」というならば、それはそうだと思う。そんな割に合わないギャンブルは好き者がすればいい。してもしなくても、どっちでもいいんじゃない?

 

で、本題だけど、努力の本当のみかえりはそんな巨大で不確かなもの以外にある。確実で小さくて、積み重なったら割とえらいことになるものが。それに気づくのはある程度年をとってからなのよね。積み重なるのに時間がかかるから。で、若い時にあまり目に見えない報酬で頑張るのは、人によっては割と大変だから、なんやらごまかして頑張ってみることになる。それこそ「努力すれば必ず報われる」とか、やや現実離れした、希望のある言葉で励まされたりして。でもそれで良いんだと思う、実際に報われるから。それは本人が思い描いていた形とは違うかもしれないけど。

 

色々な構造がまだ不安定な頃は、ギャンブル的な当たりが今より多くて、だから現実離れした、希望のある言葉が、今より現実味を帯びていたんだろう。だから努力もしやすかったのかもしれないが、しかし努力の効果の基本的な部分は、実は今も昔もそれほど変わらず、地味な部分が主体なんじゃないだろうか?

 

「努力なんかしても、必ず報われるわけじゃないわ、生まれとか才能が大切だわ」なんて言う「俺はリアルを知ってるぜ」ぶってる奴は、実は一番夢見がちな子なんじゃないか。その夢より多少厳しい事実を見て、次は逆にニヒリズムに陥っているという・・・思春期的な、ほら。

 

いやん、恥ずかしい。

 

もう一つ、これは本題とそれるけど、この時代にまじめに働くのが馬鹿らしい理由として、報われないからじゃなくて、報われたところで「幸せさ」に大きな変化が得られないからという面があるのではないだろうか。どのポジションにいても、それなりに幸せが手に入ってしまう社会というか。格差があるなんていっても、所詮全員それなりに幸せなぬるま湯社会じゃ、やるきしねーよね。